Main Menu

悩める現代の女性たち

トランプ米国大統領の訪日の様子が世界中で報じられる中、米ニューヨーク・タイムズ紙は「トランプ訪問で、雅子皇后はスター」と題する記事で大統領訪日最終日のニュースを締めくくっています。

 「日本の国民は、雅子皇后が流暢な英語でメラニア・トランプ夫人と話すのを見て感動した」「トランプ氏と会話する雅子皇后のイメージは、彼女が外交能力を活かしてソフトパワーを促進するのを助け、厳しい家父長制の皇室で新しい女性のあり方を確立することになるかもしれない」と記事は綴られています。

 さらに、「(これまで皇室の女性に)優先されるべきミッションは皇室に後継者をもうけるという女性の役割に縛られていたが、日本でも女性の地位や役割が変化している」と指摘。雅子さまが伝統的な役割に縛られずに公務を果たしていくことに期待する学識者の意見などを紹介しています。

 もちろん、外交における皇室の役割は限定されており、政治的な利害関係にかかわらず、我が国を象徴する立場から諸外国との友好親善を深めるためのものであることは言うまでもありません。

 そうした中、宮中晩さん会などで堪能な英語を駆使して通訳を交えずに大統領やメラニア夫人と会話をはずませている雅子さまの様子に、皇后としての本格的な外交デビューへの期待を寄せる向きがあることも十分に理解できます。

 さて、皇太子殿下とのご成婚以来、お世継ぎ問題や度重なる体調の不良、それに連なるメディアからのプレッシャーや「人格否定発言」のクローズアップなどで(週刊誌などを中心に)何かと話題に上ることの多かった雅子皇太子妃。

 しかし、皇位継承後、皇后としての初めての外交儀礼等を無難(かつ見事に)にこなしたその姿から、何か一つ「吹っ切れた」ようなものを感じたのは私だけではないでしょう。

 古い皇室のしきたりの中で、現代女性としての葛藤を全身で受け止めながら過ごされてきた(と想像される)雅子皇后に対しては、これまで、世代や性別、政治的な立ち位置まで含めた様々な視線が注がれてきました。

 しかし、(私の妻もそうでしたが)彼女と同世代かそれより年下の(特に働く)女性からは、概してその立場を慮る思いや共感の声が多く寄せられていたのではないかと思います。

 さて、新天皇の即位によって(こうして)改めて国民の注目を浴びている雅子皇后に対し、文藝春秋 2019年6月号では国際政治学者の三浦瑠麗氏が「雅子さまのあり方は、今日の悩める女性たちの象徴」だという論考を寄せ、日本の社会は女性皇族に「こうあるべき」というプレッシャーを押し付けていると指摘しています。

 今回の代替わりにあたっても「新天皇・新皇后に期待することは?」という話にすぐなりがちだけれど、天皇も皇后も生身の人間。国民の側が、人間の実像をはるかに超えた理想を一方的に押し付けるのは、どこか間違ってはいないかと三浦氏はこの論考に記しています。

 皇族の方々にも人権はあるはず。そこを無視するのは、一種の暴力だと氏はこの論考で指摘しています。平成を通じてカリスマ性を発揮されてきた平成の両陛下を引き継ぐだけで、今上両陛下は十分重い務めを背負われている。すでにそれだけの重荷を生身の個人に背負わせているという自覚を、私たち国民の側も持つべきではないかということです。

 特にそのあり方がメディアで注目され、時に批判の対象にもなりやすいのは天皇よりも皇后の方ではないかと氏は言います。皇后は(平民の出ということもあって)「皇后への国民の期待」という口実の下に、常に厳しい視線に晒されているというのが氏の認識です。

 雅子さまは、米ハーバード大学で学び外務省で働くという、同世代の女性の中でもとりわけ進んだキャリアをお持ちの方。ところが皇太子妃になられてからは、『お世継ぎ』を産むことを最大の使命として期待され、個性を生かした公務を果たす機会に十分恵まれてこなかった。さらに、(昭和世代の)「妻」や「母」としてあまりに完璧だった美智子さまと何かと比較されてきたということです。

 美智子さまの佇まいや言動は、あたかも完成された「芸術作品」のようだと三浦氏はしています。しかし、だからこそ、美智子さまのあり方を「皇后の手本」のように考え、雅子様に押し付けてはてはいけないというのが氏の指摘するところです。

 こうした雅子さまのあり方は、「今日の悩める女性たちの象徴」ではないかと三浦氏はこの論考に記しています。

 雅子さまに限らず皇族の女性が受けているプレッシャーは、現代の日本女性が日々受けているプレッシャーに通じるものがあると氏は言います。日本社会では、女性は男性以上に、あるパターンやイメージを押し付けられる存在だということです。

 一時、期巷では「ワンオペ」(ワンオペレーション=一人勤務)という言葉が流行っていましたが、女性の社会進出が進みつつある中、それでも出産や育児をはじめとした家事の負担の大部分を(相変わらず)女性が担っているのが現状です。

 なので「しっかり者」の女性ほど、『妻』そして『母』としての役割を完璧にこなそうとする。同時に、そんな女性ほど職場でも(男性と同じように)「戦力」とみなされ、本人自身、仕事も完璧にこなそうとすると氏は説明しています。

 しかし、そんな超人的なことなど誰にできるのか。しっかりした女性ほど、自分で自分の首を絞めるにいたっているというのが三浦氏の考えるところです。

 完璧な女性、完璧な妻、完璧な母であるうえに完璧な働き手となることを強いられる現代の女性たち。社会から男女のジェンダーをなくす努力が求められているのは勿論ですが、彼女たちの感じるストレスをきちんと受け止められる社会をつくることが、まずは先決なのではないかと三浦氏の指摘から私も改めて感じた次第です。






コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です